東京物語


.


 僕がまだ小さかった頃。僕には特別、仲の良かった友だちが一人いた。そのヒトは駅前の喫茶店の常連さん。家への帰り道にその喫茶店があって、窓ぎわの席で外を通る人をいつも眺めていた。
 初めは何気なく通り過ぎていたのだけれど、ある日ぱっちりと視線が合って、そのヒトがふんわりと優しくほほ笑んだのが始りだった。

「……いつもここを通るけど、お家への帰り道なのかい?」
 お店から出てきたそのヒトは、もじもじしているボクに向かって、さっきの柔らかな笑顔を向けてくれた。
「うん。ボクの家、前のさくら通りを渡ってまっすぐ行ったところにある、幼稚園のすぐそばなんだ」
 つられてへらりと笑いながら、ボクは喫茶店の前からまっすぐにのびる人が四人並べばいっぱいになりそうな路地を指差した。
「そうなのかい」
 まっすぐのびる道を眺めたまま、そのヒトは細い瞳をもっと細くする。今にも沈みそうな真っ赤なお日さまに照らされて、そのヒトの横顔もキレイな夕焼け色に染まっていた。

 たったそれだけの会話だった。けれども、ボクらが友だちになるには十分だった。

 それから毎日、ボクはその喫茶店へ通うようになった。そこに行けばそのヒトに会えるから。そこでしか会えないから。

 そのヒト……友だちを“そのヒト”って言うのもおかしいから、名前を聞いたら『イオ』だって教えてくれた。
 イオはボクの知らないことをたくさん知っていて、毎日毎日ボクに話を聞かせてくれた。ボクもそれがうれしくて、一生けんめい耳をかたむけていた。
 今、ボクがたくさんのことを知っているのはイオのおかげなんだ。
 毎日毎日通ううちに、お店のマスターとも仲良くなった。鼻の下にちょこっとだけヒゲを残しているのがとっても面白くて。カウンターからじぃっとそればっかり見つめていたら、
「このヒゲがきになるのかい? これはね、まあ、意地みたいなものなのさ」
と、笑いながら教えてくれた。
……意地でちょこっとのこすぐらいなら、もっとたくさん残しておけばいいのに……。

* * * * *

 そうして数日がたったころ、ボクの家にイオが訪ねて来た。びっくりしたけどあのふんわりとした笑みを見たら、それもどうでも良くなっていた。なにより、イオがボクの家に遊びに来てくれたのがうれしかった。
「よくわかりましたね。ボクの家」
「ああ。以前、教えてもらったからねぇ」
 そう言いながら、イオはボクの一番お気に入りの場所、縁側にちょこっと腰を下ろした。ボクもその隣に静に座る。
 見上げた空は、まんまるお月さまとキラキラお星さまのきらめく真っ黒夜空。そのままなんにも言わないイオを、ボクはこっそりと盗み見る。
 薄く青いお月さまの光に照らされたイオは、お月さまと同じ光に包まれて、今しがた天から降りてきたばかりの神さまのように見えた。
「……どうしたの?」
 なんだか消えてしまいそうで、思い切ってかけた声にイオはただ笑って「会いたくなっただけさ」と、それだけ言った。
 何もしないで、何も話さないで。ただ、ただ、ボクたちは夜空を見上げていた。そんなボクたちを、たくさんのお星さまえと、たった一つのお月さまだけが静に静に見下ろしていた。

* * * * *

 次の日、喫茶店に寄って見るとイオがいなかった。何か用があったのかなと、その日はそう思って家に帰った。
 けれども、次の日もその次の日も。一週間たっても二週間たっても、イオはお店に来なかった。
 どうしたんだろうと不安になってマスターを見上げてみたけど、マスターも悲しそうな顔をして首を横に振るだけだった。そうしていつも、決まって一言だけつぶやく。
「きっと自分の死に場所を探しにいったのだろうさ。イオは高齢だったし。猫は死ぬ姿をだれにも見せないって言うしなぁ……」

 そうして、イオがいなくなってどれだけの日が過ぎたのだろう。小さかった僕も、今ではすっかりあの頃のイオと変わらないぐらいに大きくなった。
 相変わらず僕は毎日毎日、駅前のあの喫茶店に足を運んでいる。今では僕がりっぱな常連さん。窓ぎわの席に陣取って、じっと外の通りを眺める。そうしてだれかと目があったら、あの時みたいに笑顔であいさつしようかな。



_END [ 2005/04/26 茶々紅 ]


.

__

トップへ戻る