『 ひとりきりのうた 』

06:ゴールラインの前で - 新しい僕へ -

 白く霧がかった意識の中で、誰かが泣いている声を聞いた気がした。思わず歩いていた足を止めて辺りを見回してみるけど、だれの姿も見つけられない。それでも、その声は僕の背後から聞こえて来ているようで、男性とも女性ともれる不思議な色を含んでいる。聞えてくる音は微かなのに酷く気になって。もと来た道を戻ろうとしたとき、誰かが自分を呼ぶ声が聞えてきた。走り出しかけた足を止めて、元々向かっていた方向へとまた体の向きを変えた。
『……ちゃん』
 はっきりと頭の中に響く女性の澄んだ声。どこかで聞いたことがあるような気がして、晴れ始めた霧のむこうに目を凝らした。そうして霧散さした霧の向こうにいたのは、白いワンピースを着た髪の長い一人の女性だった。
『……おいで』
 その女性が笑ったような気がして、白く細い両手が飛び込んでおいでとばかりに自分へと伸ばされた。それを見た瞬間、嬉しい気持ちが胸いっぱいに広がり、女性しか見えなくなった。ふらりと足が前に進み、次第に歩調を速め、最後には走り出していた。
――早く、早くあの人のもとへいかなくちゃ!
 気持ちばかりが先へ走り、パシャリと足下で水が跳ねる音が鳴っても進む。サブサブと足首まで浸した水の抵抗を受けながら、それでも前へ進むことは止めない。女性だけを見て、あの人のもとへ辿り着くことだけを願って……。
 次の瞬間、足下を浮遊感が襲った。
「!?」
 初めて、女性以外のことが見えた。けれども、それは遅くて。急に深くなった水底に足を取られ、一気に体が水の流れに攫われる。思った以上に早い流れに、水面へ上がろうともがくけど、そうすればするほど体は沈む。
 口に溜めていた最後の空気がこぼれて、もうダメだと思ったとき急速に全てを理解した。女性が手振っていた向こう岸。あそこはきっと死んだ人間が行く場所だ。いつか見た本の中に書いてあった、天国というところなのだろう。そして、自分はそこへ行くことができなかった。
――違う、初めから行けるわけがなかったんだ。
生まれたときから、世界のルールを逸脱した存在だった。一般的な常識なんて通用しない。自分は、自分を必要とする全てに人として見られることは一度もなかった。そこにある物と一緒。必要だから置いてある。…字を書くのに、ペンや鉛筆が必要なのと同じことだ。自分がいなければ困る人がいて、自分はその人のために生まれた。……いや、造られたと言った方が正しいんだ。
 だから、僕はあの場所へ行くことはない。死ねば、ただ消えるだけ。もとからなかったものだから、もとの通り無に戻るだけ。
……まだ、届くだろうか?
もし、僕の全てに僕の思いを残すことができるのなら、新しい僕に伝えてもらいたいことがあるんだ。声にならなかったから、きっと届かなかっただろうから。最後まで、お別れの挨拶も出来なかった僕の代わりに伝えて欲しい。有難うという気持ちと、一緒にいるだけで楽しかったこと。そして……大好きだったこと。君の口からこんなことを伝えさせるのは卑怯かもしれない。それでもこれで最後だから……伝えて欲しい。この気持ちを全て――あの子に。


 

07:ゆめくい - 生きた証 -

「――気分はどうだい?」
 ベッドに上半身だけ起こし、窓の外を眺めていた青年がゆっくりと振り返って笑みを浮かべる。
「とてもいいですよ。手術前の痛みや苦しみが嘘みたいです。…これも、俺のために頑張ってくれた先生や励ましてくれた看護師さんたちのおかげです。ありがとうございます」
「…いや。全ては生きたいと願う君の強い思いが成したことだよ。本当に、君は頑張ったから」
 そう言うと、青年は照れたように笑いながら首を左右に振り、そっと右手を胸の上に乗せた。
「でも、本当に。適合者が現れたと聞いたときは信じられなかった。……俺、生きてるんですね」
「…ああ」
 青年の言わんとしていることを覚り、自分でも無意識のうちに顔をしかめていた。
「何処の誰だかわかりませんけど、感謝してます。ありがとうって言っても、きっと足りないぐらいに」
「…そう言ってもらえるなら、きっとその提供者も喜ぶよ」
「そ…ですかね」
「ああ」
 はにかむように笑って、生きていることの喜びを噛締める目の前の青年に気づかれぬよう、そっと息を吐いた。知らず緊張していたようで、それと同時に肩の力も抜けた。
 自分が手がけた患者を、手術後に見舞うことなど珍しいことではない。けれども、今回の手術は自分にとって特別な意味を持っている。失敗は絶対に許されず、自分自身も許すつもりはなかった。拒絶反応が出ないことは初めからわかっていたから、失敗するとすれば自分の手腕のみ。だから手術の終わったその日の夜は、精神的にも肉体的にも限界を越えているはずなのに一睡も出来なかった。麻酔で眠る青年が無事に目を覚まし、笑ってくれることだけで頭がいっぱいだった。
「…先生?」
 自分を呼ぶ青年の声で、思考の底から現実へと引き戻された。
「ああ、すまない。少しボーっとしていたようだ」
「先生、それきっと働き過ぎですよ? 忙しいのはわかりますし、患者さんの期待に答えようとしてくれるのは嬉しいですけど…。ちょっとぐらいは休んだ方がいいですよ?」
 そう言って、心配そうに見上げてくる青年に笑みを返して「ありがとう」と伝えた。あの夜、自分が奪おうとして結局自ら逝くことを選ばせてしまった少年と、同じ顔で微笑む青年は、きっとこの先も真実を知ることなく生きていくのだろう。


『…人口臓器…ですか』
『そう。アレがあれば、別に適合者を待たずとも息子は元気になれるのだろう?』
『そうですが……しかし、アレはまだ実験段階で、心臓を作り出して人に移植する事例はまだ数えるほどしかあしません。そんな手術を私どもの病院でするというのはリスクの面でどうかと……』
『なら、人からであればいいということか』
『それはつまり、待つ…ということですか?』
『いいや。ないのならば造ればいいだけのことだ。幸い、私の会社はそういった技術には長けているしな。後は、君たちが監視すればいい。息子に見合う大きさになるまでな』
『しかしそれは……』
『この病院を開くとき、私がどれだけ銀行に口を聞いてあげたかまさか忘れたというわけではないだろうね?』
『……』
『悪い話ではないだろう? 君たちにとっても、いい実験材料になると私は思うのだがね。前々から、君も興味はあっただろう?』
『……わかりました』
『ふむ。よろしく頼むよ――』


……知らなくてもいいことだ。この子の中の父親への目をわざわざ濁らせる必要はないだろう。それに、そんな権利も私は持っていない。むしろ教えたことで、せっかく生きる希望で輝いている瞳を、曇らせてしまいたくない。そんなことは、きっとあの子も望んではいないだろう。いずれ知る時がくるかもしれない。でも、今はこのままで……
「少しでも、君が生きていた意味を……残しておいても構わないだろう?」


 

08:あいし、あいされること - 最後の伝言 -

――その子に会ったのは、その時が初めてのはずなのにとてもよく知っているような感じがしたんだ。


「…っ、待って!」
 横をすり抜けようとした少女の腕を、自分でもわからないままつかんでいた。当然、つかまれた少女は怯えた瞳でつかまれた腕から視線で手繰って俺へと辿り着く。が、目が合ったと同時にその瞳から怯えが消え、信じられないものを見たような驚きが顔いっぱいに広がった。
「あ…その……」
 大きな瞳にじっと見つめられて、声をかけた俺が逆にしどろもどろになってしまった。
「……お兄ちゃん、弟とかいる?」
「は、え? …い、いや。俺は生まれてこの方、ずっと一人っ子だったけど?」
 問いかけにそう答えれば、見てわかるほどに落胆した少女が視線を逸らして顔を伏せた。
「変なこと聞いてごめんなさい」
「い、いや…俺の方こそ急に引き止めてごめんな」
 伏せたままの頭が振られ、気にするなと言われているようで。自分の不可解な行動にギュッと張り詰めていたものがふわりと解けた。それと同時に、彼女の腕をつかんだときと同じ感覚が急激に押し寄せてきた。
 彼女に言わなければならないことがあるはずだと、心のどこかが叫んでいるようで。それは感謝の気持ちであり、楽しかった思いであり、そして……
「…あのな。これからお兄ちゃん、変なこというかもしれないけど……聞いて欲しいんだ。君には、必ず伝えなければならない。そんな気がするんだ」
「変なこと?」
 少女の視線に合わせるようとしゃがみこみ、きょとんとして首を傾げる少女にこっくりと頷いた。
「うん、あのな、『いっしょにいられてたのしかった。さいごまでボクのことで  くるしませてごめんね? …でも、うれしかった。それと……』」
 言葉を紡ぐ俺の口元を凝視しする少女の体が僅かに震える。
「『…それと、ボク、マリちゃんのことだいすきだったよ』」
 一瞬、大きな瞳がいっぱいに見開かれ、次の瞬間にはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めて慌てた。
「あ、おっ……大丈夫か?」
 とっさに大声を上げそうになったのを、押し止める。一呼吸おいてから、そっと少女の小さな頭に手を乗せてなでた。悲しみと嬉しさの両方が混ぜこぜになった表情のまま、何度か手の下の頭が揺れた。
「あ、の…っ」
「んー?」
 止まりそうもない涙をシャツの袖で何度も擦りながら、しゃくり上げた声で一生懸命に言葉を絞り出そうとするのを、じっと待つ。
「あ、りがとうっ。…言葉、伝えてくれて……。ありがとうっ」
 そう言うと懸命に笑みを浮かべ、それが彼女の信頼の表現なのかしゃがみこんだ俺にギュッと抱きついてきた。その小さな背に腕を回し、あやすようにぽんぽんと軽くたたく。
 そうして、自分にこの言葉を言わせた、少女のことを大好きな存在について考える。すぐに、それが何処から伝わり、俺の口を通してこぼれたものなのか思い当った。
(……お前…なのか?)
 そっと目を閉じて、今では俺の一部となった鼓動に問いかける。答えるものなんて何もない。けれども、無償に腕の中の少女を守りたいという思いが溢れて、無意識のうちに抱きしめる腕に力がこもった。
 それが多分、この気持ちの主の答えだったのだろう。


  

09:うしなわれた涙 - 約束 -

「こんなところにいたのか…」

 突然かかった声に、一人きりだと思っていた私は思い切り体を震わせた。瞼を覆っていた手を外して、声が聞こえた方へと視線を向ける。
「……トモ兄ちゃん」
 そこに立っていたのは、真白なTシャツにジーパン姿の少年だった。私の呼びかけに軽く片手を上げて見せると、こちらへと歩み寄って来た。
「いいのか? ヒロ行っちゃうぞ? 見送るって言ってなかったっけ?」
 傍まで来ると、フェンスに背を預けてたたずむ私に視線を合わせるようと屈みこむ。こういうことを、ヒロくんと同じ顔で普通にやってしまうからどうにもこそばゆくてしかたない。返事を促すように首を傾げて覗き込むトモ兄ちゃんから逃げるように、フェンスから背を離してその横をすり抜けた。
「いいよもう。あんな小さなビンなんて、ヒロくんじゃないもの」
 そう、あんなのもうヒロくんじゃない。
 彼がこの世からいなくなる時、私は彼の傍にいてあげることが出来なかった。だからせめて、消えてしまうときぐらい傍にいて「さようなら」と笑顔で言うつもりでいた。けれども、ヒロくんの体はエライお医者様たちに切り刻まれて、ヒロくんだけれどヒロくんではないモノに変わってしまった。
「…まあ、そうだな」
「結局、私、ヒロくんとの約束なにも果たせなかったなぁ……」
「約束?」
 呟いた言葉を耳聡く聞きつけて、背後からトモ兄ちゃんの声が飛んでくる。それに振り向かないまま頷いて、更に数歩前へ進んだ。
「ヒロくんが消えることになっても、傍にいてあげること。ヒロくんがこの世からいなくなるときは、最後まで傍にいて笑っていること。…私、そう約束したのに、両方とも守れなかった」
 考えるだけで泣きたくもないのにじんわりと目もとが熱くなる。
「…そっか……」
 溢れそうになる涙を止めようと必死になる私の頭に、ぽんと包み込むように手の平がのった。
「大丈夫。そんなに気にしなくったって、ヒロは怒ったりしないさ」
「……なんでそんなことがわかるの?」
 あまりにも勝手な言い分に、振り返ってトモ兄ちゃんを睨みつけた。けれども、その視線を受けている当の本人はふんわりと笑みを浮かべている。それがあまりにも以外で、睨みつけた視線はすぐに驚きのものへと変わってしまった。
「ヒロはまだこの世から消えてなんかないさ」
 そう言うと、トモ兄ちゃんはトントンと自分の胸を指さした。それが、何を意味するものかすぐには理解出来なかったけれど、以前ヒロくんからトモ兄ちゃんに心臓が提供されたことを思い出してハッとした。
「ここで生きてる。ヒロ自身は確かにもうこの世にはいないかもしれない。でも、ヒロの一部は俺と共に今もここで行き続けている。だから俺は、ヒロはまだ消えたなんて思っていない。それに……」
「それに?」
「マリちゃんだって、ヒロと過ごした日々を忘れたわけじゃないだろう?」
「……うん」
 優しく問いかけられて、素直に頷いていた。それに満足したのか、トモ兄ちゃんの顔に優しい笑みが浮かぶ。それがヒロくんと被って、顔が熱くなった。
「だったら、まだヒロは消えてなんかないよ。だから、約束も破ってない」
「……うん」
 かなり強引な解釈だけれど、トモ兄ちゃんが一生懸命私を励ましてくれているのがわかったから。それが嬉しくて笑みを浮かべて何度も頷いた。
「よし。んじゃまあ、こんなところにいても風邪をひくだけだし。中に入ろっか?」
「うん!」
 そう言って頭から離れていく手の平を少し残念に思った。そんな気持ちを振り払うように首を左右に振ると、屋上の入口に向かって歩いていくトモ兄ちゃんの背中に、思い切り飛びついた。
「うあっ?!」
「ありがとう、トモ兄ちゃん!!」
 約束は守れなかったけれど、まだ私の中でヒロくんは消えてなんかいない。だから、最後の約束は私なりに守って行こうと思う。もう、君を思って泣いたりしない。泣くぐらいなら、君と過ごした短い時間を楽しかったと笑顔で語れるようになろうと思う。


  

10:エピローグ

「退院おめでとう、マリちゃん」
 そう言って笑う先生に、今の嬉しい気持ちを全部詰め込んで笑い返した。腕の中でカサリと花束が揺れて音をたてる。
「ありがとうございます、戸灰先生」
 軽く頭を下げると、入院時よりも伸びた髪がするりと肩口から落ちた。それを、両手が塞がって払えない私の変わりに先生が「失礼するよ」と小さく断ってから肩の後ろへと戻してくれた。
「あ、すみません」
「いやいや、これくらい。それにしても、すっかり伸びたねぇ。入院したての時は男の子みたに短かったのにね」
「…変ですか?」
 しみじみと言う先生に不安になって問いかければ、慌ててめいっぱい左右に首を振った。
「まさか! よく似合っているよ」
「良かった……」
 ホッと胸を撫で下ろす私を見て、先生がくすくすと小さく笑った。それにムッとして自分よりも上にある顔を睨みつけた。
「何がおかしいんですか!」
「いや、ね。マリちゃんもすっかり女性だなと思って」
 そう言いながら、機嫌の悪くなった私の頭をぽんぽんと撫でる。すっかり女性と言う割には、こういうところで子供扱いを先生はする。……まあ、それで機嫌が治る私も私で、まだまだ子供なのだろうけど。
「……寂しくなるね」
 ふいに、今までの笑みが嘘のように先生の顔が悲しみに歪む。私の胸もそれと共にキュッと痛くなった。
「…大丈夫。一生の別れじゃないんですから、また会いに来ますよ。必ず」
「辛くないかい? …ここへ来ることは……」
 私なんかよりも、よっぽど辛そうに顔をしかめた先生が何を言わんとしているのかすぐにわかった。
「辛くない…と言ったらウソになるかもしれません。でも、ここは私にとって大切なことがいっぱいあった場所だから。大切な人と、いっぱい笑った場所だから…また来ます。
だから、先生にはそのついでに会いに行きますよ」
 そう言って力いっぱい笑って見せると、先生もつられて笑った。
「強いくなったね、マリちゃんは。…じゃあ、お茶菓子でも用意して待っていることにするよ。だから、いつでも遊びにおいで」
「はい!」
 お世話になった人々に見送られて、私は今日この病院を後にする。あの日、自分を取り巻く全てが悲しくてシーツに包まって泣いていた私を、懸命に笑わせようとしてくれた彼に出会った場所。友達になって、たくさんの時間を過ごした場所。そんな彼を気がついたら好きになてて。でも、それがわからなくて。ただ漠然と、ずっとそばにいたいと願っていた。なのに。そんなちっぽけな願いも叶うことなく、彼が二度と覚めない眠りについた場所。
 ここで過ごしたのはたった三年間なのに、生きてきた十三年の中で一番多くのことを学んだ日々だったと思える。だから……
「…あの時、シーツに包まって泣いていた私じゃないよ。君のぶんまで生きるって決めたから。もう、泣くだけは止めようって決めたから。それに……」
 揺られる車の中。嬉しそうに話す両親の会話を聞きながら、そっと胸を押さえた。――君にはもう触れられなくても、君との思いではここにあるから。色褪せてしまうかもしれないけれど、忘れたりなんてしない。
「ねぇ、ヒロくん。私…約束守れてるかな?」
 車内から見上げた青空に、君の姿を見つけられないままそっと小さく呟いた。


『僕が消えることになっても、最後まで傍にいて?そして、僕が消えるその時には、笑って見送って欲しいんだ……マリちゃん――』


  

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