『 ひとりきりのうた 』

01:たとえば僕が消えても - 君の願い -

 カシャリと背を預けた屋上のフェンスが軋み、ゴツゴツとした感触が伝ってくる。張り詰めていた息をゆっくりと吐き出して空を仰いだ。いくつかの雲が、上空の早い風に乗って足早に駆けて行く。体全体に圧し掛かっていた重たい空気が、それと共に青い空へと吸い込まれて行くように消えていった。
 けれども心にある重みは消えることなく、私の中にわだかまりを作り雫となって頬を濡らし続けていた。
「…ごめん。やっぱりダメみたいだ、私……」
 つぶやいた言葉が虚しく宙を舞い、伝えたい相手へ届くことも無く消えて行った。頬を伝う涙をそこいある全てに見せるのが嫌で、瞳を閉じて顔を両手で覆い隠した。視界を埋めた闇の中で、忘れたくても忘れられない人の顔がゆっくりと浮かぶ。それはいつだって笑っている君で、いつも決まってあの時から始る。


  ―――…そうだね。じゃあ、僕を ―――



 * * * *



「…いらっしゃい」
 耳障りな機械音の聞える真白な部屋の中で、出合った頃よりもやつれた君がいつもの笑みを浮かべて私を迎えてくれた。それに答えようと強張った顔で笑おうとしても、前のように上手く笑うことができなかった。時刻は午前二時。就寝時間はとっくに昔に過ぎていた。それでも何か会いたくなって、気がついたらここへ来ていた。君はそれでも起きていて、迷惑がることもなく自分を病室へ招き入れてくれた。
「…ごめんね、起こしちゃったよね……?」
 何も履いていない素足で、ペタペタとと音をたてて彼の横の横たわるベッドへ歩み寄る。申しわけない気持ちを精一杯詰め込んで紡いだ言葉に、彼は笑顔のまま首を横に振った。
「君のせいじゃないよ。もともと起きていただけ」
「…眠れないの?」
 首を傾げて彼の顔を覗き込んで訪ねれば、困ったように眉をひそめた。
「うん……痛みが酷くってね」
「大変じゃない! 看護婦さんには言ったの?」
 身を乗り出して聞けば、また首が小さく横に振られる。
「いつものことなんだ。それに、我慢できないほどじゃないし……」
「でも、眠れないぐらい酷いんでしょう?」
 もう一度訪ねた言葉に返事はなく、代わりに彼がゆっくりとべっどから身を起こした。助けようと伸ばした手が触れた背中は、同じ年とは思えないほどに薄く、骨の感触がダイレクトに伝わってくる。それが一層、自分の心に拍車をかける。きっともう、一緒にいられる時間は残りわずかしかない。
「もう、痛みを抑える方法がないんだよ。僕、眠っているふりをして先生の話、全部聞いちゃったんだ。全くね。子供だからって、そんな話を近くでしたら無用心だよ」
「……ねぇ、私にできることはない?」
「え?」
 困った顔のまま無理に笑おうとするのを見るのが嫌で、何か言おうと思ったら心の声がそのまま口に出ていた。
「……じゃあ、僕を殺してくれる?」
「えっ……?」
「苦しくてもう嫌なんだ。痛いのはもう…嫌なんだよ」
 言われたことへの驚きと、初めて彼の本当の思いを知った悲しさが入り混じって。わけもわからないまま、必死で彼を抱きしめていた。壊れそうなほど細く脆い。きっと、力をこめれば今すぐにだって殺せてしまう。
 こぼれそうになる涙を耐えていた私の背に、彼の腕がそっと回って抱きしめ返してくれた。それだけのことが、どれだけ彼にとって重労働か考えなくても分る。
「…ごめん、今のは忘れて。君には…君に願うのは、僕が消えることになっても…最後まで傍にいてもらいたいこと。そして、僕が消えるその時には、笑って見送って欲しいこと。どこにいても、君を思い出すときはいつでも笑顔であるように……」


―――何も欲しない君だから。だから私は、君のために…自分のために


  願わずにはいられない。できることなら、最後が来るその時だけは君が苦しまずに逝けるよう……。ずっとずっと祈っている。――――――


 

02:殺人未遂 - 少女の決意 -

 耳慣れたはずの機械音が、うるさいぐらいに響いて。ガラス越しに君を見つめながら、強く拳を握りしめた。今ほど、自分の無力さに腹が立ったことはない。苦しそうに顔を歪めて、空を掻く手を縫いとめられて。そんな君の傍にさえいてあげることが出来ない。
「……やめなさい。それ以上爪がくい込めば、縫わなければならなくなるよ?」
「!?」
 握りしめていた拳を、そっと優しく包み込む感触に反射的に手を取られた方へと視線を走らせる。見えたのは白衣に身を包んだ男性の姿。そのまま視線を上へと移動すれば、眼鏡をかけて困ったように微笑む先生と目が合った。言いたいことや泣きたい気持ちがいっぺんにせり上がり、言葉にならないまま睨み上げるしか出来ない。そんな私の気持ちが全て分っているように先生は頷くと、片膝をついて屈み血の流れる私の手に真白なハンカチを巻いていく。
「後でちゃんと消毒しようね」
 器用に巻かれていくハンカチを凝視した瞳から、何とか耐えていた涙がポタリとこぼれ落ちる。
「……先生はお医者様なんでしょう?」
 ぴくりと、先生の手が震えた。
「だったら教えて下さい。どうして病院にいるのに、病気が治らないの?どうして苦しまなければいけないの? ここは、そういうの全部治してくれるための場所なんでしょう?」
 言葉にしてはいけないと思っていたことが堰を切って溢れて、止まることなく震える声となって口から滑り出ていた。先生を責めてもなんにもならないことなんて分っている。分っていても、責めなければ心が壊れてしまいそうで止めることが出来なかった。
 屈みこんだその白衣の胸ぐらを掴んで叫ぶ私を、先生は苦しそうな表情で黙って見つめた。
「どうして治らないの? どうして…苦しまなければいけないの……っ」
 涙で叫ぶこともままならなくなった頃、ふんわりと優しく先生が私を抱きしめてくれた。
「…ごめんね、治せなくて。不安な思いばかりさせて…友達を苦しめてごめんね……。でも、先生は先生のできることを精一杯する。絶対に諦めたりしないから」
「……本当?」
 掠れた声で尋ねると、体を離して真っ直ぐに見つめる先生がこっくりと頷いた。
「うん、絶対に」
「…じゃあ、指切りしよう? ウソついたら針千本だからね」
「うん、約束」
 そうして私と先生は指切りをした。絶対最後まで諦めないと心に決めて。


 * * * *



 そう、約束をかわして今日は何日目になるだろう?あの日以来、意識が戻ったり沈んだりを繰り返す君に、まだガラス越しでしか会えない。
「…もう、こんなの嫌だよ……」
 ここへ来てからずっと、君だけが一番の友達だった。病気のことで塞ぎこむ私を、まだ自由に走り回っていた頃の君はどうにか笑わせようとたくさんのことをしてくれたね。本当に、君のおかげで私は今生きていられる。自分の病気と向き合って、毎日過ごして行くことが出来るようになったんだ。だから ――
「ねぇ、いつかの君の願い。本当の願い……叶えてもいいかな?」
 ガラス越しの、遠い君に問いかける。聞えていなくてもいい。聞えていない方がいい。きっと私の決心を知ったら、君は困ったように怒って…それでも泣きながら笑うから。
「…君の本当の願いは、私の願いでもあるから……」
 確実に近づいてくる別れの予感に、少しだけ狂っていたのかもしれない。目の前で苦しむ君しか見えなくて。その苦しみから解放してあげたくて。ほんの少しの隙間でいいから、この世界の正しいことを曲げようと決めた。…そんな私を、いつも見つめる瞳があるともしらずに……。


――今夜、君ニ会イニ行コウ。一欠ケラノ願イヲ胸ニ抱イテ――


 

03:傍観者のルール違反 - 苦悩の末 -

 ひたりひたりと、素足で廊下をあるく音が微かに耳に聞えた。本人は足音を殺しているつもりなのだろうが、全く成功していない。それでも、ゆっくりと歩く後ろ姿を黙って見つめていた。
 彼女が何処へ行こうとしているのかも、何をしようとしているのかも分っている。そして確実に、自分はその行為を止めなければならない地位にあるはずだ。


――何故、まだあのやっかいなモノを生かしておくのかね?


 何度となく言われた言葉。それは暗黙的に、彼を殺せという命令。このまま放っておけば、少なくとも院長の願いは叶うだろう。自分の病院から殺人者を出すという、極めて不名誉な形で。いや、殺人として扱われることもないかもしれない。
「…私のせいだ。あんな約束を、安易にしてしまったがために……」
 数十日前、私は彼女と彼を苦しみから救うと約束した。しかし、あの約束を交わしたとき、私の口からぼれた言葉は全てが一時的な同情から出た言葉だった。諦めないなんて、大嘘だ。とっくの昔に、彼の治療は打ち切られていたのだから。悪化するままに、ただ生きるために必要な機器を体に取り付けて放置しているだけ。諦めないなど、今思い出してもよく言えたものだと嫌悪感がする。患者から希望を失わせないためと思って、結局今の事態に陥っている。もし、彼女が本当に彼を殺すことになれば、きっと私は一生後悔し続けるだろう。
……今ならば。今ならばまだ間に合うはずだ。
 もはや聞えない足音に急かされて、彼の病室へと足早に近づく。全開になっている白いドアをすり抜け、彼の命綱とも言える人口呼吸器のスイッチに伸びた小さな手を、寸でのところで止めた。
「……っ!?」
 びくりと手が震え、勢いよく彼女が視線を私へと向けた。瞳が見開かれ、顔いっぱいに驚きの表情があっという間に広がった。
「せっ…せい……!」
 信じられないものを見たと、彼女の瞳が語っている。
「…君が……殺人者になる必要はない」
「は、離してください。先生が約束を守ってくれないから、私が苦しくないようにしてあげるの!」
 つかまれた腕に力をこめて振り回す彼女を、静かな瞳で見つめた。
「ダメだ」
「なんで?! 先生、もう諦めたのでしょう? だったら放っておいて!私が、私が――」
「先生がやる」
「――え?」
 怒りで私を睨みつけていた彼女の瞳が、再び驚きの色で染まった。そんな彼女を、真剣な瞳で真っ直ぐに見つめ返した。
「先生が、そのスイッチを切る。君が切ってはいけない。君が自分を殺したなんて知ったら、きっと彼は余計に苦しむよ?」
 私が投げかけた言葉に反応して、困った表情の少女が今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた。
「だって…だって……これ以上、苦しいの見たくなくて……。傍にも行けなくて…苦しんでるのに、最後まで傍にいてってお願いされたのにっ……」
 ぽろぽろと大粒の涙を流す少女を、そっと片手で抱き寄せてその背を軽くポンポンとたたく。黙ってしばらくそうしていると、しゃくり上げながらもなんとか落ち着きを取り戻した。
「……病室に戻りなさい」
「でも……っ!」
 諭すように語りかけた言葉に、彼女が一瞬反論しろうとして自ら言葉を飲み込んだ。うな垂れるように顔を伏せて、小さくこくりと頷くのそ小さな頭をゆっくりと撫でる。子供特有の柔らかな髪が手の平に心地良い。そっと屈みこんで涙にぬれる両頬を拭ってやった。
「……ごめんね、約束破って。ごめんね……」
 こんな幼い少女を苦しめたことは、きっと許されることではない。もう少しで殺人者という負い目を、一生背をわせてしまうところだった。
「いい。先生は、先生だから…私を元気づけてくれようとしてたの分っているから…いいの」
 ふるりと首を振って震える声で呟かれた声に、思わず少女を抱きしめていた。それに少女も短い手を一生懸命に伸ばして抱きしめ返すと、力を緩めた腕からすり抜け一度も振り返ることなく自分の病室へ戻って行った。
 ぺたぺたと廊下を走る音が聞こえなくなってから、静に立ち上がってベッドに眠る彼へと視線を向けた。苦しげな表情、青白い顔。頬は子供とは思えないほどに痩せこけ、抜け落ちてしまった髪の変わりに頭には白いキャップを被せた。それは彼が望んだことで、いつも遊びに来てくれる友達に見せたくないのだとはにかんだ笑みを浮かべていた。それだけで、彼が彼女との面会の時間を大切にしているのだと分かった。これが、自分の患者。自分が助けることも出来ずに、寧ろ奪おうとさえしている小さな命。
 ゆっくりと腕を伸ばして、人口呼吸器のスイッチに触れた。
「……っ?!」
 じっと見つめていた彼の閉じた瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。そして、苦しげな表情が一瞬緩み、口元が笑みの形を作った。全てを承知しているようなその穏やかな表情に、押さえきれなかったものが溢れて頬を滑り落ちた。
「……ごめん…ね……」


  

04:目隠し鬼の涙 - 少年の思い -

――もう、これ以上手の施しようがありません。


 目を閉じると、嫌でも敏感になった聴覚が廊下で話す先生の声を拾った。あの人、きっと医師になってからそんなに経ってない。患者の病状について、本人の病室の前で話すもんじゃないだろう。
 薄く開いた瞳に、窓から射し込む光が跳ねて白くぼやける。何度か瞬いてその白をやり過ごすと、そのままじっとまた耳を澄ます。声はもう聞えてこない。どうやら立ち去ったようだった。それでもしばらくはそのままじっとしていたが、いい加減もういいだろうとゆっくりと上半身だけ起こした。それだけでもう、体中が悲鳴を上げる。
「…本当にもう、先が長くないみたいだね……」
 一人ごちってため息を吐いた。『死』という現実も、冷え切ってしまった僕の感情には何の波紋も起こさない。まるで、この世に生を受けた時から、こうなる運命だったかのように思えてくる。
 そっと視線を廊下へ向ける。
 僕が全てを承知してここにいることを、あの人たちは知らない。最初は何も疑うことなく、あの人たちに身を任せていた。自分は病魔に侵されていて、毎日入れ替わり立ち代りくる先生達が、きっと治すために頑張ってくれているのだと信じて。でもある日、うとうととまどろんでいた僕の耳に偶然入って来た会話が、その信頼を全て打ち壊してしまった。『貴重な症例における実験体』…先生達にとって、僕は患者ではなかったのだ。
 それからは、何をされても何をしても何も感じなくなった。上辺だけの喜怒哀楽を顔に貼り付けて、心だけが抜け落ちたようにただこの世から消える日を指折り数えて過ごしていた。
 そんな時だったんだ。彼女に出会ったのは。
 まだ動ける体でぼんやりと院内をうろついていたとき、泣き声が聞えてきたのだ。痛いとか苦しいとか、そんな泣き叫ぶ声はよく耳にする。けれどもその時聞えた泣き声は、押し殺した隠すような声だったから。酷く気になってこっそり病室をのぞくと、一人の少女がベッドの上にうずくまって泣いていた。顔は伏せていて見えなかったけれども、微かに震えるその丸い背中から彼女が泣いていることが分って。その姿が丸で誰かに助けを求めているように見えて。気がつけば、僕は彼女に声をかけていた。他人など構っていられる余裕があるわけないのに、思考と行動がつながらないまま僕は彼女を笑わせることに必死になっていた。始は、きっとこの退屈な死までの暇つぶしに彼女を使っているだけだと考えていた。でも、彼女が少しずつ自分に向かって微笑むようになるにつれて、彼女と共に過ごす時間が多くになるにつれて、その理由が変わっていくことに戸惑いを覚えた。
 少しずつ、少しずつ。でも、確実に僕は君が大切になっていく。君の笑顔が、一つ一つの行動が心に温かい広がりをくれる。知らない間に、心に開いたはずの穴は小さくなっていて、『死』を待っていたはずの僕の中に、少しでも長く生きたいと思う感情が生まれていた。でもそれは同時に、痛みや苦しみに対する恐れも呼び覚ましたようで。日に日になくなる体力と増していく痛みに、『死』を望む思いも強くなっていった。
 訪れる度に弱って行く僕を見て、自分のことのように痛みに顔をしかめ泣き笑いの表情を浮かべる君を、これ以上見ていたくなかった。でも、離れることもしたくなくて。そうして口からこぼしてしまった本音が、彼女を苦しめる結果になっても、傍にいて欲しいと願ってしまう。
 なんて自分勝手な感情なのだろうと苦笑を浮かべた瞬間、予期せずして瞳から涙がこぼれた。声に出せなくても、伝えることが出来るだろうか? 僕は――


  

05:ほつれ、もつれ、からまわる - それぞれの思い -

 不安を掻き立てるように響く電子音が、廊下を飛び回りベッドにうずくまる少女の耳に入り込む。一瞬、ビクリと震える様子を見せて、それでも小さな布の盛り上がりはそこから動こうとはしなかった。
 廊下を忙しなく行きかうたくさんの足音に、自然と小さな鼓動の速度が上がる。
――本当にこれで良かったのだろうか?
 一度生まれた疑問はぐるぐると頭の中を回り、心に不安を生む。


『君が自分を殺したなんて知ったら、きっと彼は余計に苦しむよ?』


 先ほど言われた言葉がふと、回っていた少女の思考を中断させた。
「…わかっているの、わかっている……」
 震える両手を握り締めて、流れる涙に濡れる瞳をそっと静に閉じた。


     

 * * * *


――全身の力が、思考の全てが、自分の言うことを全く聞かない。
 鳴り響く異常を知らせる警告音も、今の彼には聞えなかった。意識の全てが、目の前で目を閉じてベッドに横たわる少年へと向けられていた。そのままぼんやりとした視線で無造作にベッドから垂れた少年の片腕をなぞっていた瞳が、一瞬にして驚愕の色に染まる。力なく垂れる少年の手が握っていたのは黒いコードのようで、辿った先に見えたものは少年自身の命綱とも言える生命維持装置。
 声にならない声が、白衣を着た彼の喉からせり上がって漏れた。ヒュウと音を吐いたと同時に、どうすることも出来ない涙が瞳から止めどなく流れ落ちる。
「先生!?」

「……すぐに手術の用意を。必要な人間を呼んで下さい」
 飛び込んできた看護師の声に、振り返ることなく彼は震える声でそれだけ告げた。そうして、悲しみと戸惑いの色を湛えた人々の前で、何を気にすることもなくシーツを握り締めて声を上げて泣いた。
 暗い廊下に、悲しみを告げる音だけが響いて。それもやがて、夜の闇に吸い込まれるようにして消えていった。


――声ニ出来ナクテモ、伝エルコトガ出来タダロウカ?

     僕ハ、僕ヲ大切ニ思ッテクレル全テノ人ニ『アリガトウ』ト ――


   

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