『 電脳水族館 』

00:プロローグ

『……声が聞こえる』

――声?

『うん。“ニンゲンニナリタイ”って言ってる』

――あんなものに?

『うん。大切な人が人間だから、もっと近くにいるために人間になりた

いんだって』

――大切な人ねぇ…。そんなこと本当にあるもんか?

『あるから、こんなにはっきり声が聞こえてくるんじゃないの?』

――まあ、確かにそうだけど…。

『ね、アタシこの声の子の願いを叶えてあげたい』

――何を言い出すかと思えば…。

『ダメかなぁ?』

――……わかったよ。わかったから、そんなキラキラした目でオレを見るな!

『ありがとう! じゃあさっそくこの子の夢にアクセスするね!!』

――結局、自分がちょっかい出しただけじゃないか……。

『何か?』

――別に。

『そ、なら飛ぶわよ』

――はいはい、了解。



 * * * *



 真っ黒な銀河の片すみに、その惑星はぽっつりと小さくありました。“惑星”と言ってもそれは、人の手によって宇宙に浮かべられた機械のカタマリ。そこに住むみんなからは『灰色コロニー』と呼ばれていました。
 そのコロニーに存在するただ一つの街の外れの外れに、古い水族館が建っておりました。いったいいつのころに建てられたものなのか、だれも知る人はいません。建てた当時はきれいなマリン・ブルーの色をしていたであろう壁も、今ではところどころはがれ落ち、看板に描かれたイルカやクジラの絵もすっかり消えかかっています。
 今ではだれも訪れることのないその水族館を、真っ白な口ひげを生やした館長さんが一人で経営しておりました。館長さんにはお嫁さんも子供も、ましてや孫もおりませんでしたので、一人ぼっちの館長さんにとって水族館の魚たちが家族のようなものでした。
 朝一番に魚たちが眠る水槽の部屋に電源を入れること。それが館長さんの日々の日課のような仕事でした。
 暗い部屋の壁のある1点を慣れたようにトントンと叩くと、パカリと壁が小さく開きます。その中にある赤いスイッチを押すと、部屋中にウィーンという機械音が響き渡りました。その音にじっと耳を澄ましていると、今まで空っぽだった水槽にゴボリと下から水がわき上がり、あっという間にそこにあった水槽全てが水でいっぱいになりました。そうして仄かに部屋の中が青色に染まる頃には、ゆったりと泳ぎ回る色とりどりの魚たちで水槽はいっぱいになっているのです。


 

01:少年

 ある日の朝。魚たちを起こそうといつものように水族館の中へ足を踏み入れた館長さんは、ぼんやりと空っぽの水槽の前にたたずむ一人の少年を見つけました。
「……こんなところでどうしたんだい?」
 ふいにかかった声に、少年は驚いて勢いよく振り返りました。大きなブルーの瞳に見つめられて、館長さんはまるで海のようだと思いました。遠い記憶の彼方にある、海の青さ。少年の瞳は海の色をしていたのです。
「あ、勝手に入ってしまってすみません。あの…ここは水族館なんですか?」
「ああ、そうじゃよ。ここは電脳水族館といって、海について学ぶ場所なんじゃ。
わしはここの館長を任されておる」
 物珍しそうに館内を見回す少年に、館長さんは笑みを浮かべました。
「ウミ…ですか?」
「ああ、そうか。君たちの世代では海はしらないんだね」
 不思議そうに首を傾げる少年に、館長さんは少し寂しそうに微笑みました。
「そうだね……ちょっと待っておくれ」
 そう言うと、館長さんは入口近くの壁へと歩み寄り、自分の目の高さほどをトントンとたたきました。パカリと壁が小さく四角に開いて、中から赤いボタンが一つ顔を出しました。そうして、いつものようにそのボタンを押すと、ウィーンと言う耳慣れた機械音が部屋中に響き渡りました。少年は驚いて辺りを見渡し、館長さんへと疑問の視線を投げかけました。それにちょっと笑って見せると、館長さんは水槽を指差しました。
「見てごらん」
 言われるままに視線を水槽へと向けた少年は、そこにゆったりと泳ぎ回る色とりどりの魚たちを見つけました。
「わぁっ! さっきまで何もいなかったのに……すごいですね!!どうやったんですか?」
 水槽へと駆け寄り、珍しそうに何度ものぞきこむ少年の姿がうれしくて、館長さんは満面の笑みを浮かべました。
「その魚たちは本物の魚じゃないんじゃよ」
「本物の魚じゃない?」
 館長さんの言葉に、少年は首を傾げました。
「その魚も岩も水草も全部、水をスクリーン代わりに映し出された立体映像なんじゃよ」
「立体映像…これが? こんなに生きているみたいなのに……」
 少年はもう一度じっと魚たちを見つめました。けれども、やっぱり本当に生きているようにしか見えません。
「これが映像…だったら、本物の魚はきっともっともっと綺麗なんでしょうね」
 そう言って、少年は瞳を輝かせました。
「ああ、もちろんだとも。もっと多くの種類の魚が、海と言う大きく塩辛い水たまりの中で自由に泳ぎ回っているんじゃよ」
「いいなぁ。一度でいいから、僕も見てみたいなぁ……」
 思いを巡らすようにそっと目を閉じた少年の姿に、館長さんは本物の海をこの子の世代にも見せてやりたいと思いました。けれども、宇宙に浮かぶ機械のカタマリのこの惑星では、故郷のような広い広い海を作り出すだけの水も装置も、材料もどこにもありません。それでもあの広い海の記憶を残して行きたいと考えて、作り出されたのがこの電脳水族館だったのです。
「例え、こうして海の記憶を少しでも伝えようとしてもしょせんはニセモノ。本物の暖かさや広さを伝えることなど、到底無理だったのかもしれんのう……」
 ぽつりとつぶやいた館長さんの瞳は、水槽を通して幼い頃に見た広く大きな青い青い海を見つめていました。
「館長さん?」
 かけられた声にそちらを見れば、少年が心配そうに館長さんを見つめていました。
「ああ、ごめんよ。……そう言えば、君は一体どこの子だい?」
 そんな心配を吹き飛ばすように笑顔を作って問いかけました。すると少年は少し考えてから
「えっと……あ、うん。この近くに家があるんです。それで、いつも見えていたんだけど今日は思い切って来てみたんです」
と答えました。
「この近くに家?」
 少年の言葉に、館長さんは首を傾げました。というのも、水族館の近くにだれかの住む家はなかったような気がしたからです。けれども、海色の瞳を見つめているうちに、それもどうでも良くなってきました。少年がどこに住んでいようと、水族館の久し振りのお客様に違いありません。
「そうかい。それはそれは、ご来場ありがとうございます」
 館長さんは疑問を吹き消すように、笑顔で少年にぺこりと一つお辞儀をしました。
「せっかく来たのだし、水族館の中を案内していただけませんか?ついでに、館長さんのしっている海の話を聞かせてください!」
「もちろんじゃよ。わしの知っている限りのことを、話して聞かせよう」



 そうして少年はその日から、毎日水族館へ足を運ぶようになりました。
 毎日水槽を眺めて、海の話を二人で交わすこと。それは館長さんにとっても楽しみの一つになって行きました。



 * * * *



『……神様だって』

――は? なんだそりゃ。今時、そんなもん信じてる奴なんていないだろう?

『違うよ。あの子がそう言ったの。人間にしてあげるって言ったら

アタシに 「神様ありがとう」って』

――そうかい。

『うん。…なんだか変な感じだね』

――そうだな……。でも、考えてみればそう思われても仕方ないだろう。やったことがやったことだしな。

『そうだね。でも……何だかちょっとおかしな気分だよ』

――……そうか……。


 

02:街へ

「街へ行ってみたい?」
 ある日、訪れるなり言われた言葉に館長さんは目をパチパチさせて驚きました。
「君は街へ行ったことがないのかい?」
「う…ん。かっ、買い物はお母さんが行きますから……」
 館長さんの問いかけに、少年はもじもじしながら答えました。
「一緒に行きたいと言えばいいんじゃないかい?」
「い…言ったんだけどダメだって言われてしまって……」
 少年は困ったように眉をひそめました。
「でも、街へ行ってどうするんじゃ? 行っても……」
 館長だんは言いかけて、すぐに口をつぐみ首を横に振りました。
「いや、行かん方がいいのかもしれん。君のお母さんは正しいよ」
「え、どういうことですか?」
 館長さんの言葉の意味が分かりかねて、聞き返しても館長さんはただ悲しそうに微笑むだけでした。 館長さんにそう言われては、わがままを言うわけにもいきません。その後、少年が街の話をすることはありませんでした。けれども、街へいくことを諦めたわけではありませんでした。
「どうして行かない方がいいのだろう? よくわからないけれど、それだけじゃ納得行かないよ」
 そこで少年は、だれの手も借りず自分一人で歩いて行くことにしました。
「遠いと聞いているけれど、一日で行って帰れる距離だもの。きっと歩いてもいけるはずだ!」
 そう決心すると、少年は水族館を出て街のある南に向けて歩き出しました。



 どれぐらい歩いたのでしょうか。行けども行けども、先の景色に街の影も見えません。
 だいぶ長く歩いたせいか、足が痛くてもういうことを聞かなくなっていました。しかたなく少年は、その場に座りこんで休むことにしました。
「こんなに歩いたのに、ちっとも街にたどり着かない。僕の考えが甘かったのかな?それとも、途中で道を間違えた?」
 しかし、それはないとすぐに考え直しました。だってここまで、道はずっと一本道だったからです。
 暗くなりかけた空の下で砂利道にたった一人。急に寂しくなって、少年の瞳からポロリと一滴涙がこぼれ落ちました。
「帰りたい…でも、歩けないよ……」
 グッとこらえていたものが、こぼれ落ちそうになったときです。
「おおーい!」
「!!」
 背後でだれかが呼ぶ声が聞こえてきました。
「こっ、ここにいます! ここですよ!!」
 人の声が聞こえたことが嬉くて、足が痛いのも忘れて少年は来た道の方向へと走りだしていました。
「ああ、やっぱり。街に行こうとしていたんだね」
 声の主は館長さんでした。
「館長さん!」
 走った勢いのまま、少年は館長さんに飛びつきました。館長さんも、ちょっとよろめきながらそれでもしっかりと少年を抱きとめました。
「大丈夫かい? ケガとかしていないかい?」
 そう言いながら優しく頭をなでてくれる館長さんに、少年は何度もうなずきました。
「ごめんなさい! 僕、どうしても街を見てみたくて、館長さんの言うこと守らなくって……ごめんなさい」
「いいんじゃよ。わしが本当のことを君に話していれば、君も街へ行こうなんて思わなかったんだろうから……」
「本当のこと?」
 館長さんの言葉に、少年は頭を上げました。じっと、年を重ねた深い深い瞳が少年を静に見下ろしていました。
「聞いておくれ。君にはきっと信じられないことかもしれんが…街はもうないんじゃ」
「え……?」
 一瞬、何を言われたのか良く分かりませんでした。目を丸くしてポカンとしている少年の両手を握りしめると、館長さんはぽつりぽつりと話し出しました。
「もう、だいぶ前のことになるかのう。ここでの生活が順調になり始めて、さあこれからだというときに、この惑星のエネルギーを生み出す場所が大爆発を起こしてしまったんじゃ。エネルギー製造工場の真上に栄えておった街は、その爆発で跡形もなく吹き飛んでしまったんじゃ。当然、だれも生き残っておるやつはおらんかった。わし…一人だけじゃった」
「どうして館長さんは助かったのですか?」
 少年の問いかけに、館長さんは力なく微笑みました。
「あの日、わしはいつものとおり水族館にいたからじゃ。水族館は街の外れの外れに建てられていたから、爆発には巻きこまれなかったんじゃよ。それに、あの水族館はほとんど全てが機械式で、館長のわし以外人手がいらなかったのさ」
「館長さん……」
 街のあった方向。南を見つめた館長さんの瞳から、静に涙が一粒こぼれ落ちました。
「わしは、たった一人で生き残ってしもうた。妻も子供も、大切な人たちは皆街と共に消えてしまったというのに」
「……ごめんなさい。僕、そんなことちっとも知らないでこんなこと……」
 うな垂れる少年の頭に、ポンと大きな手の平が乗りました。
「分かっておった。君は…水族館で一番小さな魚だね」
「気づいていたんですか?」
 館長さんの言葉に、少年は目を丸くして驚きました。まさか、始めからばれていたなんて思わなかったからです。
「わしをだれだと思っとるんじゃ?電脳水族館の館長じゃぞ。魚の数が足りないぐらい、一度見ればすぐにわかる」
「さすが、館長さんですね」
 参ったとばかりに、少年は泣いていたのも忘れて苦笑を浮かべました。
「しかし、どうして人間に?」
「神様が僕の願いを叶えてくれたんです」
「神様が?」
 驚いた館長さんの声に、少年はうなずきました。
「眠っていた僕の夢の中に、小さな女の子が現れました。その子は僕に、一つだけ願いを叶えてくれるといったんです。それで僕、人間にしてくださいってお願いしました。夢……だと思ったんです。夢なら、きっと叶わないことも叶えられると。でも、目が覚めて驚きました、本当に人間になっていたんですから」
「そうかい。そんなことが…」
 少年の話を聞きながら、神様が叶えてくれたのは、少年の願いだけではないと館長さんは思いました。長い間一人で生きてきた館長さんも、独りが寂しくて何度人をさがして歩き回ったか分かりません。しかしそれは、逆にたった一人でしかないことを繰り返し思い知らされ、いつも落胆して帰ってくるだけでした。
「ありがとう。君のおかげで、わしはやっと自分以外の人間に出会うことができた。もう、だれとも永久に言葉を交わすこともなく、一生を終えると思っておった」
「館長さん……」
「どこまで一緒に行けるか分からんが、これからもよろしく」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
そう言って、ふんわりと少年も微笑みました。


  

03:過去

 今から数十年前のお話。まだ館長さんも若く、灰色コロニーではない故郷に住んでいた頃のことです。
 その故郷の名前は“地球”といい、それはそれは青く美しい惑星でした。大地は緑にあふれ、海は青く澄み渡っておりました。
 そころが、人々の暮らしが豊かになるに連れて、人が自然を大切にしなくなって行きました。便利な生活を送るために水と空気を汚し、木を切り倒しては他の動物たちの住む場所を奪っていきました。青く美しかった地球は次第に茶色く濁った大気の惑星になり、とうとう生物が住むには厳しい環境にまで追いやられました。
 人々はもはやどうにもならない地球を捨てて、宇宙に逃げることを選びました。それが、『移民化計画』だったのです。
 とはいえ、人が実際に長く宇宙に出てどんな影響があるのかよくわかっておらず、すぐに全員で出港というわけには行きません。そこでまず、先に出発してどんなものがあるか調べる調査隊が組まれました。館長さんはその募集に応募した青年の一人だったのです。
 調査隊として宇宙へ送り出された船は全部で十台。四方八方へと送り出された船を、人々は歓声と共に見送りました。そうして館長さんたちの船がたどり着いたのは衛星ほどもない小さな星でした。
 けれども不思議なことに、地球のように大気もあれば生物も存在していました。館長さんたちは喜んで、このことを故郷に伝えようとしました。
 ところが、何度呼びかけても通信はつながらず、砂嵐のようなノイズをきかせるだけで、一向に地球につながりません。館長さんたちは地球と連絡を取る手段がなくなってしまったのです。調査隊のみんなは途方にくれて、数日間は何もする気になれずにぼんやりと過ごしていきました。けれども、このままではいけないと心をを奮い立たせ、館長さんたちはその惑星で生きていく決心をしました。農耕から始まり、そこにあるものを使って色々なものを作り出して行きました。少なかった人口も増え、星が少し手狭になり館長さんたちは小さな惑星の表面を覆うように、少しずつ空へ向かって増築を始めました。人が多くなって困ったからと言って、お世話になった惑星を捨てることも、宇宙へ出ることも館長さんたちはしたくなかったのです。
 そうして出来たのが消えてしまった街でした。


  

04:海へ

『…声が聞こえるの』

――またか?

『うん。今度はね“ホントウノウミヲミセタイ”って言ってる』

――本当の海?

『うん。本当の海が存在しないから、大切な人に本当の海を見せてあげたいんだって』

――お前。まさかまた……

『うん。叶えてあげたい』

――冗談じゃないぞ! 海なんて、人間にするのとは比べものにならないぐらい大きなものじゃないか!

『うん。でも叶えてあげたいの』

――…そんなに神様になりたいのか?

『違うよ。そんなものあの時から少しも信じてないよ。何もかもが、アタシたちを裏切ったあの時から』

――だったらなぜ……。

『だからだよ。アタシたちは今、どうにか出来る位置に存在しているんだよ?同じ思いを、あの子にさせる意味なんてどこにもない。どうにもならなくて悲しくて切なくて……。昔のことなんて、あの子には関係ないよ』

――しかし……

『心配してくれるんだね…有り難う。でもね、諦めたくないんだ。だから…とめても無駄だよ』

――……わかった、もう止めないよ。でも、オレも手を貸すぞ。

『でも……』

――悪いが、止めても無駄だ。

『……ありがとう』

――勘違いするなよ。これは誰のためでもない。おれ自身のためだ。

『うん。でも、ありがとう』



 * * * *



 その日は朝からずっと天気のいい一日でした。空高く昇ったお日さまの光に照らされて、窓際の花たちもキラキラと輝いて見えました。
 そんな中、少年はだれかに頭をなでられていることに気がつき目を覚ましました。
「おお、起こしてしまったかのう?」
 ベッドに上半身だけ起こして微笑む館長さんに、少年は首を横に振りました。
「いいえ。丁度目が覚めた所だったんです。館長さんこそ起きていて大丈夫なのですか?」
「ああ。なんだか今日は調子がいいんじゃよ」
 そう言う館長さんの顔には赤みがさし、いつもの青白さは少しもありません。少年はホッとして立ち上がりました。
「スープを温めてきますね。調子のいいときに、食べておかないといけませんから」
「ああ、そうだね」
 館長さんに軽く微笑んでから、少年はキッチンへと向かいました。
――少年が人になってから数十年。あれから二人で水族館に住むようになって、少年は少し大きくなっていました。
 三年前に館長さんが体を壊して寝こむようになってからは、少年が看病をしていました。朝から晩まで、片時も傍を離れることはありません。館長さんは「大丈夫」と言って笑いますが、きっと大丈夫ではないことを少年はなんとなくわかっていました。自分に心配をかけまいと元気に振舞う館長さんに、少年の心はいつも苦しくなるのでした。
「どうして人間は死ぬんだろう。どうして年をとって、老いて行くのだろう。どうして……永遠の別れなんてしなきゃいけないんだろう……」
 立体映像だったときの“死”という言葉は、少年にとってとても遠い存在でした。けれども、人になって館長さんと暮すようになってからは、とても身近なものに感じるようになりました。
――ずっと一緒にいたいのに……。
 ポタリと少年の瞳から、透明な雫がこぼれ落ちました。それは、言いたくても言えない、少年の本当の気持ちでした。
 少年がスープを持って行くと、館長さんはベッドに腰かけて窓の外を眺めていました。
 向けられた背中がとても寂しそうで、また胸のどこかがキュッと音をたてて痛みました。そんな気持ちを振り払うように、少年は笑顔で声をかけました。
「館長さん、スープが温まりましたよ」
「ああ、ありがとう」
 ゆっくりと振り返った館長さんは、やっぱりいつもどおりあの優しい笑みを浮かべていました。少年からスープのお皿を受け取ると、そっと一口飲みました。
「すっかり、君の料理の腕が上がってしまったね。とってもおいしいよ」
 そう言って館長さんは苦笑を浮かべました。
「……わしはもう、きっと長くはないじゃろう」
「!」
 視線を窓に向けて、ふいにぽつりと館長さんがつぶやきました。その言葉に、少年は一瞬心臓が止まってしまうのではないかと思いました。
「そんなっ……」
 否定しようと声をあげた少年を、こちらへ向き直った館長さんの澄んだ瞳がじっと見つめました。少年は言おうとしていた言葉が、スゥッと頭の中で消えていくのを感じました。
「いいんじゃ。人ならばいつかは訪れること。否定してもしょうがないことじゃ」
 そう言うと、館長さんはそっと少年の手をとって微笑みました。
「ありがとう。わしの前に、人として現れてくれて。ずっと一人で…死ぬまで生きていくんだと思っておった。でも、この年になってこんなに可愛い孫を持つことが出来て、わしは本当に幸せじゃ」
「館長さん……」
 さっきぬぐったはずの涙が、また頬を静に流れ落ちました。そんな少年を、館長さんは小さな子をあやすようにそっと抱きしめて、その背をポンポンと軽くたたいてあげました。
「けれども、最後に一つだけわがままを言わせてもらえるのなら、君と一緒に故郷の海を見てみたかった……」
 そう言って、そっと館長さんが瞳を閉じたときでした。

――その願いごと…叶えてあげるよ。――

「!」
 ふいに声が響いたかと思うと、部屋中眩しい光であふれました。
「わっ! なっ、何?」
 思わず目を閉じた二人が、次に目を開けたとき、そこには一人の少女が立っていました。
 少女はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべ、ペコリとお辞儀をしました。
「この子は……?」
「館長さん、この人なんです。僕を人間にしてくれた神様って!」
「あなたが……」
 少年の言葉に、館長さんは笑みを浮かべました。
「神様、ありがとうございます。彼を人にしていただいたおかげで、わしは残りの人生をとても楽しく過ごさせていただきました」
「それは違うわ。アタシはただ、小さなお魚さんの願いが叶う手助けをしただけ。その結果、あなたもお魚さんも幸せになっただけ。神様は何もしてないわ」
 そう言って微笑むと、館長さんに歩み寄りその手を取りました。
「今度はあなたの願いを叶える、手助けができそうね」
「手助け…ですか?」
 『願いを叶える』のではなく、『叶える手助けをする』とは、いったいどういうことなのでしょう。館長さんも少年もよく分からず首を傾げました。
「願いはね、ただ思うだけじゃダメなの。強く強く、なによりも叶えたいと願う心がなければ神様でも叶えられないの。小さなお魚さんは、本当に心から人になりたいと思っていたわ。だからアタシは、その願いを叶えることができたの。そして今、館長さんのなによりも叶えたいと思う強い心が、アタシに願いを叶えるチャンスをくれたのよ」
「わしの強い願い……」
「さあ、あなたの願いをアタシに言って。そうしたら、アタシはその願いを一番最高の形で叶えてあげる」
「館長さん!」
 少年の弾んだ声と、じっと静に見つめる少女の瞳。館長さんは、にっこりと笑みを浮かべました。
「わしの心からの願いはただ一つじゃ。本当の故郷の海を、彼と共にこの目でもう一度だけ見ること。ただそれだけじゃ」
「館長さん……!」
 館長さんの言葉に満足そうにうなずくと、少女の体が静に光を放ちました。

――行こう。あなたたちの故郷の海へ――

 まぶしいばかりの光とは違う、優しい光が部屋中にあふれました。まるでお母さんの腕の中にいるようだと思いながら、館長さんはそっと目を閉じました。



――さあ、目を開けてごらん――



 そっと目を開けると視界一面、青い光が飛びこんできました。
「ああ……」
 ザァッと寄せる波の音。空を飛ぶカモメ。遥か遠くに見える青い空と白い雲。砂の小さな粒の一つまで、何もかもが思い出の中の故郷の海そのままでした。
「なつかしい……そうじゃ、これが本当の海なんじゃ」
 しまっていた懐かしい記憶がこみあげて、館長さんの頬を涙となってぬらしました。
「そうじゃ。あの子は? それに、神様はいったいどこに?」
 そう言って立ち上がろうとした館長さんの肩に、そっとだれかの手が乗りました。振り向くとそこには、じっと海を見つめて立つ少年の姿がありました。その海を映した青い瞳は、さらに青く深く染まりキラキラと輝いていました。
「本当の海……思っていた以上にきれいですね。ただ、知識としてあるだけでは本物がどんなものなのかなんて分からないと、初めて知りました。……こんな気持ち、きっと水族館の立体映像だったらわからなかった。ありがとう館長さん。僕に、本当の海を見せてくれて」
 にっこりと笑みを浮かべる少年に、かんちょうさんも幸せそうに微笑みました。
 そうして二人は、ずっとずっと時の許す限り、毎日海を見つめて過ごしました。


  

05:エピローグ

――声、聞こえるか?

『……うん』

――良かったな。あいつら幸せそうだった。

『うん…良かった。人の死の運命は変えられないけど、少しでも幸福な時間をあげることができて……良かった』

――そうだな。……眠いのか?

『うん…もう、ほとんど空っぽだからね。一緒に海、見たかったんだけど……映像切れちゃった』

――満足か?

『…ん……』

――そうか。…もう寝ろ。ずっと…オレが壊れるまでここにいてやるから。

『あり…ガと……アタシ……』

――なんだ?

『アたシ、シあわセ……だ・ヨ……』

――…そうか。

『…………』

――おやすみ。良い夢を……



 * * * *



 真っ黒な宇宙の片すみに、ぽつりと浮かぶ一つの惑星。
 その星は遥か昔、人が作り出したただの機械のカタマリでした。けれども今は、青い水にその身を包まれた水の惑星へと姿を変えていました。どうしてそうなったのか、知る人はだれもおりません。
 ただ、ぷっかりと漂う小さな島の、古い古い建物に住む立体映像の魚たちと神様だけが、その理由を知っているのだそうです。


 終


 

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